平遥古城 ・ 雲岡石窟


平遥古城(へいよう・こじょう、中国語ではPingyao Gucheng)は中国山西省晋中市平遥県の古い町。省都太原から南へ100キロの地点にある。1997年、ユネスコ世界遺産文化遺産)に登録。
概要
平遥清代末期までは山西商人の拠点であり、中国の金融中心地であった。
中国では長い歴史の中で戦火にあったり、改築されて昔の都市がそのまま残っていることは少ないが、この平遥古城には14世紀の明代始めに造営された町がそのまま残っている。「城」は中国語では城壁に囲まれた町を意味する。明代から清代にかけての中国の典型的な城郭(城牆)、街路の配置、商店や住居などの古建築の保存状態はよく、中国でも最も整っているもののひとつである。

雲崗石窟(うんこうせっくつ)は、中国山西省大同市西方20キロにある東西1キロにわたる約40窟の石窟寺院。雲崗石窟としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されている。
概要
元は霊巌寺といい、現在では石仏寺などと呼ばれる。北魏沙門統である曇曜文成帝上奏して460年(和平元年)頃に、桑乾河支流武周川の断崖に開いた所謂「曇曜五窟」(第16窟、第17窟、第18窟、第19窟、第20窟)に始まる。三武一宗の廃仏の第一回、太武帝廃仏の後を受けた仏教復興事業のシンボル的存在が、この5窟の巨大な石仏であった。
その後も、第1・2窟、第3窟、第5・6窟、第7・8窟、第9・10窟、第11・12・13窟と大規模な石窟の造営が続けられ、雲崗期(460年-494年)と呼ばれる中国仏教彫刻史上の一時期を形成した。
様式上は、最初期の「曇曜五窟」には、ガンダーラグプタ朝の様式の影響が色濃い。その後の石窟ではギリシア様式の唐草文様に代表される西方起源の意匠も凝らされており、当時の建築様式を模した装飾も豊富に見られる。しかし、洛陽へ遷都する494年以降の末期になると、初期の雄大な質感は姿を消し華奢で力強さの感じられない造形が増加する傾向が顕著となる。そして、この傾向の延長線上に、続く龍門期が待ち受けている。
また、その影響関係で言えば、雲崗の様式は涼州(甘粛省)の石窟にその淵源を持つとも考えられるが、雲崗の影響は龍門・天龍山・南北の響堂山などの広範囲な石窟寺院に及んでいる。
日本人建築学者 伊東忠太が発見。
付近に露天掘りの炭鉱がある影響で石炭の粉塵による汚染が進んでおり、対策が急がれている。
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